『FUN HOME ファン・ホーム』はここ数年でブロードウェイで上演されたミュージカルの中で5本の指に入るくらい好きな作品です。その作品に東宝が挑戦。2018年2月7日、日本版が開幕しました。
日本版を初日に観劇し、とても素晴らしかったし満足もしたけれど、それと同時に、ブロードウェイで観たときのあの感覚は何だったのだろう?とここ数日間ずっと考えています。この疑問を解決すべく、ブロードウェイ版のことを少し振り返ってみました。
ブロードウェイ版の『FUN HOME ファン・ホーム』は、「笑って泣けるミュージカル」と評されました。私もそう思いました。この作品は、ある意味「笑うから泣ける」ようなところがあると思っています。前半に笑った分、後からぐっとくる。日本版の初日の客席は全編通して「笑い」も「泣き」も少なめでした。 舞台上の意気込みと真剣さはものすごく伝わってくるのですが、客席との間には温度差がある。
ブロードウェイで観劇したとき、前半はあちこちから笑い声が漏れてきて、とてもリラックスした雰囲気でした。そして、子どもたちがとにかく明るくて元気だった。例えば “Come to the Fun Home” の冒頭。日本語版は大人のアリソンと子どもたちが客席に手拍子を促すのですが、ブロードウェイ版はそれはありません。一番下の弟ジョンが棺の上で踊り始めた瞬間、客席もスイッチオン。忘れもしない、Zell Steele Morrowという最高に可愛いくて愛嬌のある子でした。彼はブロードウェイ公演を完走していましたね。
ちなみに、ブロードウェイ版の台本ではキャストの想定年齢がクリスチャン役が10歳、アリソン役が9歳、ジョン役が6歳になっていました。したがって、クリスチャンが身長的に一番大きく見えることもありましたが、日本版は笠井日向さんチーム、龍杏美さんチーム共にはっきりとアリソンが大きかったです。東宝の公式ホームページを見ると、クリスチャンが「アリソンの1歳下の弟」、ジョンが「アリソンの4歳下の弟」と紹介されています。原作でもクリスチャンは「1歳下の弟」という一コマが出てくるので、日本版は原作に忠実にしているのかな。
大学時代のアリソンの “Changing My Major” はピュア。歌っているのはトニー賞助演女優賞にノミネートされたエミリー・スケッグス。ここもブロードウェイでは笑いの起きるナンバーでした。
『FUN HOME ファン・ホーム』の後半〜終盤はコーラスナンバーや賑やかなナンバーがなくなり、ソロが続きます。これらのナンバーではやはり個々のキャストの力が試される。ブロードウェイ公演は、主演男優賞、主演女優賞、助演女優賞(x3)という計5名のキャストがノミネートされるすごい公演でした。
まずは子ども時代のアリソンが歌う “Ring of Keys” 。トニー賞授賞式で歌われた1曲。アリソン・ベクデルさんご本人もインタビューでいちばん好きな曲に挙げていらっしゃいました。トニー賞助演女優賞にノミネートされたシドニー・ルーカスの “Ring of Keys” はブロードウェイの演劇ファンの記憶に長く長く残ることと思います。トニー賞授賞式のパフォーマンスも良かったけれど、個人的に最高の出来だと思っているのはこちら。(トニー賞授賞式では相当緊張していたみたいで、袖で震えていたらしいです。それでも素晴らしかったけれど。)
そしてクライマックスに向けた辛く悲しい3曲。
“Days and Days” はヘレンの歌。ブロードウェイでは他にソロ曲が多いわけでもないこの役にジュディ・クーン(トニー賞助演女優賞ノミネート)やレベッカ・ルーカーといった名だたる女優がキャスティングされていましたが、劇場でこの曲を聞いたとき、なぜ彼女たちでなければいけないのかがわかったような気がしました。ブロードウェイの劇場ではこの曲あたりからすすり泣きが。私もそうでした。
こちらはブロードウェイ公演に期間限定でキャスティングされたレベッカ・ルーカーが歌った “Days and Days” 。
続いて “Telephone Wire”(電話線)。大人のアリソンが歌う数少ないナンバーの1つ。ブロードウェイで大人のアリソンを演じたのはベス・マローン。トニー賞主演女優賞ノミネート。私はベス・マローンの研ぎ澄まされた大人のアリソンが大好きでした。彼女のアリソンは、観客と過去の自分と家族との間で絶妙な距離感でそこに居て、進行役でありながら観客に過剰に語りかけない冷静さと知的さが魅力でした。爽やかでもあり凜々しくもあった。トニー賞授賞式のパフォーマンスではシドニー・ルーカスが注目を浴びましたが、バックで彼女を見つめるベス・マローンの表情も言葉にならないくらい多くを語っていました。歌唱力はどちらかというと弱いけれど、それを補って余りあった。彼女がこの役を演じてくれたことに感謝。この動画はアウト・オブ・コンテキストでのパフォーマンスなので劇中とはまた少し感じが違いますが、改めて聞いてみると可愛らしい声の方だったな。
そして “Edges of the World” では、トニー賞主演男優賞を受賞したマイケル・サーヴェリスの圧倒的な歌唱力と迫真の演技で客席は沈黙に・・。この曲はさすがにプロモーション等でもあまり使われず、動画もありません。でも、劇場で観たら納得の主演男優賞。
この3つのナンバーを経て、本当のラストである “Flying Away” へと向かいます。私が日本版の日本版の初日を観たときは、この “Flying Away” で初めて涙が出ました。(逆に言うとここまで泣きませんでした。)ブロードウェイ版を観たときは、その前ですでに泣いていて、この “Flying Away” ではそれまでとは違った涙が出ました。
“Flying Away” は始まり方から終わり方まですべてが好き。3人のアリソンが過去に歌ったメロディーを重ねて歌います。3人が全力で歌う瞬間、何かすごいものが飛んでくるんですよね。特に “I can see all of Pennsylvenia” という、この作品の軸ともいえる「飛行機ごっこ」のフレーズがたまらない。
ちなみに、このフレーズは日本語版では「見渡せるペンシルベニア」と訳されています。意味的にも過不足なく訳されている大変美しい訳なのですが、日本語版では最後の1回だけが「見渡せるすべてを」と歌われていました。英語は最初から最後まで一貫して “I can see all of Pennsylvenia” 。本音を言うと、個人的にここは「見渡せるペンシルベニア」で通してほしかったです。ペンシルベニア州の田舎町、それがこの物語のすべてが起こった場所だから。
ブロードウェイ版『FUN HOME ファン・ホーム』はサークル・イン・ザ・スクエアという円形劇場で上演されていました。ちょっと体育館っぽい雰囲気です。シーンによっては役者と同じ方向を見ることになるし、何より舞台を挟んで向かい側に座っている観客が見えるのがよかった。みんなで見守って、みんなで笑って、みんなで泣く。わずかな時間だけれど、劇場全体がまるで家族のようになれる。
以前にも書きましたが、ヘレン役のジュディー・クーンがこの作品についてこんなことを話していました。
I’ve never been thanked so much for the work I’m doing on stage.
舞台に立つ仕事をしていて、こんなに感謝されたことはない。
確かに客席に座っていても、とても温かい空気を感じたのです。
そして、ブロードウェイでは終演後に楽屋口からキャストが出てきてくれて、さらに想いを共有し合う場所がありました。『FUN HOME ファン・ホーム』の楽屋口はいつも笑顔と「ありがとう」があふれ、キャストたちは、昼公演後でも夜公演後でも基本的にほぼ全員が出てきていたそうです。この作品は休憩なしの1幕完結作品なので、キャストの間ではファンとの交流が「第2幕」と呼ばれていたとか。(笑)この動画の後半に楽屋口の様子が写っていますが、私が観に行ったときも本当にこの通りでした。
ただ、円形劇場でないとこの作品の魅力が完全に失われてしまうというわけでもありません。『FUN HOME ファン・ホーム』ブロードウェイ公演はすでにクローズ済みですが、その後もツアーで米国内各地での公演が続いています。米国ツアーは円形劇場ではなくシアタークリエのような普通に前から見る形式。それでもツアーは大盛況で、投資回収にも成功しています。
トニー賞授賞式で、作品賞を受賞したときのスピーチの最後に、アリソン・ベクデルに対する感謝の言葉がありましたが、そのときに “share” (シェア)という言葉がありました。
Our foremost gratitude goes out to Alison Blechdel, you had the courage to share your family story, you trusted us to put it on Broadway, and now our audience is finding a way to understand and love their family, thank you!
私たちはアリソン・ベクデルに最大の感謝を伝えたいです。あなたが勇気を持って家族の話をシェアしてくれて、私たちを信頼してブロードウェイで上演させてくれました。そして、観客は今、自分の家族を理解して愛する術を見い出しています。
誰かの想いを共有すること。それこそが『FUN HOME ファン・ホーム』の真髄なのではないかと思います。
原作の冒頭に、アリソン・ベクデルのこんな言葉があります。
MOM, CHRISTIAN, AND JOHN.
WE DID HAVE A LOT OF FUN,
IN SPITE OF EVERYTHING
ママ、クリスチャン、ジョンに。
色々あったけど、楽しかったね。
この彼女の気持ちにどれだけ共感できるか。日本版を観たときとブロードウェイ版を観たときとでは、ここに僅かだけれども確かな差があると感じました。
心の底から感じられる「悲」と「喜」。ブロードウェイ版『FUN HOME ファン・ホーム』はそれを私に体験させてくれました。